100名城探訪 山中城を攻める

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こんにちは、ユキムラです!

今回は100名城シリーズになります。

静岡県にある北条氏が築いた、【山中(やまなか)城】を攻めてきたのでご紹介します!

山中城とは?

Googleマップより

山中城は静岡県三島市にある、小田原北条氏の【北条氏康】が築いた山城です。

本拠地の小田原城を守る西側の抑えとして、戦国時代の1558年~70年頃に築かれ、【箱根十城】のひとつとされています。

しかし豊臣秀吉による小田原征伐の際に、小田原城への進路上にあるこの城は真っ先に攻められ、約7万人の大軍により半日で落城しました。(北条軍は約4千人)

本城】と小田原征伐の際に拡張した【岱崎(だいさき)出丸】に分けられます。

100名城スタンプの場所

山中城の100名城スタンプは、駐車場横にある【売店】にあります。

店内・店外の両方にあるので、売店が休みのときもスタンプを押せますよ!

城の構造

山中城の全体図(パンフレットより)

城は東海道(旧国道1号線)を取り囲むように東側(写真右)が【本城】、西側(写真左)が【岱崎出丸】となっています。

特に【本城】では北条氏の築城技術である、【障子堀(しょうじぼり)】【畝堀(うねぼり)】を間近で見ることができ、戦国時代の山城を体感することができますよ!

本城を攻める

山中城パンフレットより

本城は城主である【松田康長】と援軍の【北条氏勝】が守っていたとされています。

それではお城を見て行きましょう!

まずは山中城の中核である、【本城】から攻めてみます。

本城の入口です。

右側のなだらかに上っていく道は、【箱根旧街道(東海道)】で、石畳が敷かれています。

山中城は、箱根旧街道を取り込むように作られていました。

そのため、関所のような役割も果たしていたようです。

入口付近は駐車場になっているため、車を降りたらすぐに城を見ることができます。

ここから【本丸】を目指して行きましょう。

この付近は三の丸となっていて、通路の横に空堀を見ることができます。

訪れた日は雨上がりだったので、空堀の中に水が溜まり、水堀のようになってる場所もありました。

三の丸堀を横目に進んでいきます。

場所によって道幅は狭く、1人しか通れない場所もあるので気をつけましょう。

田尻の池・箱井戸

少し歩くと、何やら池らしいものが見えてきました。

田尻の池】です。

山中城は山城なので、飲み水の確保は城の運命を決める生命線でした。

そのためこうした池を多数作って、いざというときのために備えていたのです。

隣には【箱井戸】という池もありました。

ここで道が別れるので、西の丸を目指して行きましょう。

ここから道の傾斜が、急に険しくなっていきます。

階段になっているので登りやすいですが、雨上がりだと滑りやすいので、転ばないように気をつけましょう。

道を進むと右側に傾斜ある地面がありますが、この上は二の丸になっていて、簡単には登れない作りになっているのが分かります。

西の丸

しばらく登っていくと、【西の丸】を案内する看板が出てきます。

そして最後の階段を上がると・・・

西の丸】に到着しました。

この場所は小田原征伐の際に拡張されたところです。

広大な広さを誇るところで、周囲を堀で固めている鉄壁の曲輪でした。

西の丸から、二の丸方面を見たところです。

いくつかの平地になっている曲輪が見えます。

西の丸の西端は、少し小高い岡になっています。

ここは【物見台】という、監視をする場所なんです。

西の丸から見た富士山です。

残念なことに、今回は見ることができませんでした。

木に少し隠れてしまっていますが、眼下には【三島・沼津】の市街地を見渡すことができます。

圧倒的な兵力で迫る豊臣軍を、どのような気持ちで眺めていたのでしょうか。

山中城名物といえば、この【障子堀】です。

堀の中を縦・横に仕切り、敵の動きを封じるためのものでした。

特に西の丸と西櫓の間にあるこの堀が、山中城の中でもっともキレイに見れるスポットになります。

一方で南北側は堀を縦に仕切る【畝堀】となっています。

台風による大雨の影響で、西の丸を支える法面が崩れてしまっていました。

障子堀を同じ目線から眺めてみました。

堀の仕切りを、間近に見ることができます。

現在は保護のために芝を貼って横幅が広く感じますが、当時は幅がもっと狭くて、歩くのも困難だったと思われます。

西櫓

続いて西の丸隣にある、【西櫓】を見ていきましょう。

西櫓のスペースは西の丸と比べると、1/4ほどのスペースになっています。

山中城の掲示板より

当時の西櫓は西の丸と一体になっていて、【馬出】といわれる出丸のようなものでした。

西櫓から眺めた障子堀です。

西櫓からも、眼下の市街地が一望できました。

つつじの先には、現在の国道1号線も見えます。

西櫓の周囲は畝堀に囲まれています。

西の丸(左)と西櫓(右)です。

西櫓の先には【西木戸口】という、出入口もありました。

豊臣軍の【徳川家康】は、ここから西の丸へ攻め入ったとされています。

元西櫓

西の丸入口まで戻ってきました。

今度は【元西櫓・二の丸方面】を見ていきましょう。

西の丸と元西櫓の間は、深さのある堀切で仕切られているため、アップダウンに苦労することに。

元西櫓への登り口は狭く、人1人通るのがやっとの階段です。

元西櫓】へ着きました。

広さは西櫓と同じくらいでしょうか。

二の丸から眺めた元西櫓です。

小さい曲輪ですが周囲は土塁で囲まれ、奥には西の丸も見えます。

二の丸(北条丸)

次は【二の丸】を見ていきましょう。

元西櫓から二の丸へは、木橋が掛けられています。

橋の下は畝堀になっています。

渡っていると、また小高い丘が見えてきました。

ここも櫓の跡になっていて、周りを見渡せるようになっています。

反対側はこんな感じ。

奥にはまだ何かありそうなので、あとで行ってみましょう。

二の丸は北条丸とも呼ばれ、山中城のなかでもっとも広い曲輪となっています。

少し分かりづらいですが、完全な平地ではなく傾斜がついていて、歩きづらくなっているのでご注意ください。

二の丸からは、伊豆半島の田方平野も眺めることができました。

そのなかには箱根十城のひとつ、【韮山(にらやま)城】付近も見渡すことができ、当時は【のろし】などで連絡を取り合っていたことでしょう。

韮山城は小田原征伐の際に、山中城と同じく攻められましたが、3ヶ月持ちこたえたのち開城しました。

本丸

次はいよいよ【本丸】です。

本丸へ続く道には【本丸西橋】が掛かっています。

この橋は作り方が半分ずつ分かれていて、本丸側が土橋・二の丸側が木橋です。

これは本丸まで敵が押し寄せた場合に、二の丸側の木橋を堀に落として、敵の侵入を阻止するためのものでした。

本丸と二の丸の間にも畝堀が張りめぐらされています。

本丸へと入ると以外にスペースが狭いことに驚きました。

ここは城主の【松田康長】が籠城した場所と同時に討死したところです。

本丸は3段の造りになっています。

下段まで行ってみましょう。

ここには山中城の【兵糧庫】がありました。

武器・弾薬、食料は本丸で貯蔵していたんですね。

兵糧庫の土台となる【柱穴】と呼ばれる礎石もありました。

北の丸

本丸の奥には【北の丸】という曲輪もあるので行ってみましょう。

本丸の奥にある、階段を登っていきます。

階段を上がった右手には【天守櫓跡】もあり、山中城で標高が1番高いところです。

落城寸前のときに最後の抵抗をするため、約200人ほどの北条軍がこの周辺に集結していました。

北の丸へは橋が掛けられています。

北の丸(左)、本丸(右)

北の丸と本丸の間にある堀です。

北の丸に着きました。

北の丸より外側は城外になるので、より深さのある【外堀】があり、攻め手側の難易度が高いことを感じました。

三の丸(宗閑寺)

山中城の三の丸は住居が多く建ち並び、城の面影はあまりありません。

そのなかで【宗閑寺(そうかんじ)】というお寺があり、山中城攻めで亡くなった両軍の武将が祀られています。

岱崎出丸を攻める

山中城パンフレットより

次は岱崎出丸を見ていきましょう。

山中城の出丸として作られましたが、未完成のまま戦いを迎えてしまいます。

ここを守っていたのは【間宮康俊】という武将で、樺太を島だと発見した【間宮林三】の先祖です。

岱崎出丸を拡張したことで山中城は巨大要塞となりましたが、城の広さと守る人数が釣り合わず、出丸から豊臣軍の侵入を許してしまいます。

それでは、売店のある駐車場から入っていきましょう。

岱崎出丸は東海道に沿った形で作られているのが特徴です。

そのため本城とは違い、細長い形をしています。

途中で広いスペースが見えてきました。

この場所の名前は付いていませんが、岱崎出丸の中で1番広い曲輪です。

ここでは2012年まで【山中城まつり】が開かれていて、山中城の戦いを再現したチャンバラが人気でしたが、現在は中断しています。

御馬場曲輪

岱崎出丸最初の曲輪です。

周囲は南側を除き、堀などの防御施設はありませんでした。

未完成の曲輪だと実感させられます。

中には休憩スペースもあり、城内とは思えないほど和な場所で驚きです。

御馬場曲輪より入口方向を見てみました。

中央に見える住宅街が三の丸です。

御馬場曲輪の南側は空堀になっていて、1箇所のみ畝が確認できました。

御馬場曲輪の南側には【構築中の曲輪】もあり、工事が間に合わなかった姿を留めています。

ここからから眺める景色は絶景でした!

武者溜まり

岱崎出丸の最西端には、【武者溜り】と【すり鉢曲輪】があります。

まず左に見えてくるのは【武者溜り】です。

ここは20m~30mほどの、細長い平地になっています。

名前のとおりこの場所に、兵士を待機させておく場所だったと思われます。

すり鉢曲輪

岱崎出丸の最西端【すり鉢曲輪】に入ってみましょう。

この曲輪は山中城の戦いで【間宮康俊】が死守していた場所です。

約200人ほどの北条軍が守っていましたが、間宮康俊をはじめとした全員が討死したといわれています。

すり鉢曲輪の少し北側から、出丸を見渡してみました。

御馬場曲輪に向かって、緩やかな上り坂になっています。

一の堀

岱崎出丸から東海道側には、急斜面の法面と畝堀を見ることができます。

当時は重い鎧を身につけていたため、この畝堀と法面を乗り越えてくるのは、容易なことではなかったでしょう。

しかし豊臣軍は、すり鉢曲輪に攻撃を集中させることで隙ができた間に、一の堀を乗り越えて岱崎出丸へと侵入しました。

アクセス

バス

JR三島駅より元箱根方面行【山中城跡】下車すぐ

伊豆縦貫道【三島塚原IC】より約15分

まとめ

いかがでしたか?

小田原征伐はじまりの舞台となった【山中城】は、半日で落城した悲劇の城でしたが、北条流築城術のすべてを取り込んだすばらしい城でした。

近くにお越しの際には、ぜひ訪れてみてはいかがでしょうか。

それではこのあたりで!

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