こんにちは。ユキムラです!
武田信玄の関東侵攻で、大軍に攻められながら守り抜いたお城があります。
それは【滝山(たきやま)城】
今回はそんな「堅城」の姿を、現地からご紹介します!
(※本記事の資料は、現地のパンフレットから引用しています。)
滝山城ってどんなお城?
滝山城は【東京都八王子市】にあるお城です。
石垣を使わない【中世城郭】のお城で、その規模は広大です。
現在も「空堀」や「土塁」などの遺構が残り、戦国の城を楽しめる、都内で貴重なスポットです。
現在は【都立滝山公園】として整備されており、安心して見学することができますよ!
城の歴史
滝山城は戦国時代、関東を管理していた上杉家の家臣【大石定重】によって築かれたとされています。
その後、関東に勢力を広げてきた小田原北条氏の城となり、北条氏康三男の【北条氏照(うじてる)】が現在の姿に改修したと言われています。
本拠地小田原の「北側を守る城」として、武田信玄の【2万人】に攻められたことがありました。
しかし見事に守り抜き、その堅城ぶりを発揮するのです。
滝山城はわずか【2千人】の兵力で守り抜いたスゴい城なんです!
城を攻める
城を攻める前に、滝山城の【全体図】を見ていきましょう。
どうでしょう、当時はかなり巨大な城だったことが分かりますよね!
現在は400年の月日が流れ、遺構が失われてるところもありました。
そこで今回は、整備されてるところを中心に見ていきます。
大手口
それではさっそく攻めていきましょう!
今回は王道の正面玄関【大手口】から入っていきます。
【滝山城址下】のバス停からすぐに、入口の看板があります。
大手口は細い一本道で、途中にクランクがある【】です。
住宅街を少し進みますが、抜けるとすぐに城らしい風景になります。
すると通路は急斜面となり、行く手を阻まれます。
両サイドは土塁となっており、ここを真っ先に通過する者は、間違いなく標的にされるでしょう。
小宮曲輪・三の丸
大手口を抜けるとまず最初に現れるのは、【小宮曲輪】と【三の丸】です。
この場所は両サイドに配置し、側面から敵を攻撃する仕掛けです。
左手には小宮曲輪があり、高い斜面と堀跡が見られます。
当時はもっと堀が深かったことなどから、この斜面を登ることは、相当大変だったことでしょう。
右手には三の丸がありますが、こちらの防御も抜かりありません。
周囲をぐるりと堀が囲み、鉄壁の場所だったことでしょう。
しかし武田信玄に攻められたときには、この三の丸まで落とされてしまいます。
さすが戦国最強と言われた武田軍ですね。
小宮曲輪の北側には、領民の避難場所【山の神曲輪】という施設もありました。
千畳敷(せんじょうじき)
続いて見えてくるのが【千畳敷】という場所です。
こちらも周囲が堀で囲まれていますが、1面だけ通路が隣接しています。
中に入るとかなり広いことが分かります。
滝山城の中ではもっとも広く感じました。
現在はベンチが設置された休憩スペースとなっています。
通路の横には紅葉があり、見頃を向かえていました。
二の丸
千畳敷を過ぎると二の丸に入っていきます。
この場所は滝山城のなかで、もっとも堅い場所で、武田軍の攻撃を防いだ場所だとされています。
見てください、この堀の深さです。
実際に見たときには、あまりの深さに驚いてしまいました。
現在でも堀底から二の丸まで、10mほどあるでしょうか。
現地から眺めると「これでは落とすことは相当難しいな」と納得する高さですよ。
写真では伝わりにくいので、動画でもご覧ください。
堀の深さを感じでいただけましたか?
この深い堀が二の丸を囲んでいて、中への出入りは幅が狭い【土橋】で渡っていました。
当時の堀は深さが15mほどあったみたいです。「城の中に城」があるような体験ができますよ!
しかし入口には【馬出し】が3ヵ所も作られていたので、ここを突破するには相当困難だったことでしょう。
二の丸に入ると中でもまた、2つの施設に別れていました。
通路は堀の役割もしてたんですね。
中の丸
次は二の丸を越えて【中の丸】に攻め込みます。
「中の丸?」と疑問に思いませんでしたか?
そうなんです、別のお城では二の丸を突破すると、本丸になりますよね。
この理由は城の【通路】にあります。
滝山城は私が今回歩いてきた【二の丸】を通るルートと、【小宮曲輪】から通るルートの2つがあります。
この2つの通路が合流する地点が、中の丸なんです。
そのため、中の丸も厳重な防御施設で、二の丸との境目には深い堀で仕切られていました。
戦がないときには、ここで政庁業務を行っていた中心施設だったみたいですよ。
当時は、北側に11mの断崖
東側に9m・南側に15mの空堀がありました。
本丸
さあ、中の丸を攻め落とせば、いよいよ最終関門の【本丸】です。
中の丸と本丸へのルートは、この木橋を使っていました。
その名は【引橋(ひきはし)】です。
現在は当時より高い位置に掛けられています。
実はこの橋、当時は面白い仕掛けがありました。
通常は写真のように、本丸から二の丸(写真左から右)に掛かっていたのですが、戦闘時には変わるんです。
なんと、二の丸から本丸方向に向かって、橋を半分ほど収納できました。
橋の下は深い堀になっているので、橋を収納されたら簡単に本丸へ行けないことが分かりますよ!
橋を渡り、いよいよ本丸です。
本丸は二段造りになっていて、滝山城を最初に築いた【大石氏】の名残がここにあります。
城主は当時、ここに住んでいました。
本丸には井戸があり、籠城するときには貴重な水資源だったことでしょう。
現在もかなり深い跡があり、水は湧いていませんが、当時の雰囲気を味わえますよ。
本丸上段からも多摩川と、対岸の拝島市街地が見えます。
武田信玄が対岸に布陣したときに、城主の北条氏照はどのように思ったのでしょうか。
信濃屋敷(武家屋敷)
最後に武家屋敷群の跡をご紹介します。
【信濃屋敷】です。
「東京なのになぜ信濃?」そんな疑問が湧きますよね。
実は北条氏照は、前城主「大石家」の養子に入っていました。
その名前である【大石信濃守(しなのかみ)】に由来しています。
この先にも「刑部屋敷」「カゾノ屋敷」と続き、全て信頼のある家臣がこの場所を守っていたとされています。
この曲輪にも大きな紅葉の木があり、キレイに咲き誇っていました。
紅葉狩りもできて、一石二鳥でしたね。
これにて攻城完了です!
まとめ
いかがでしたか?
滝山城は北側から本拠地「小田原」を守る、重要な拠点だとお分かり頂けたと思います。
しかし武田軍撃退後、この城は急に使われなくなり、新拠点【八王子城】が築かれることになります。
今回はこのあたりにして、また次の機会にご紹介したいと思います。
それでは!
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