【岐阜城】道三から信長へ!高い山に築かれた「天下布武」の城

城と歴史

こんにちは、ユキムラです!

みなさんは【織田信長】のお城といえば、どこを思い浮かべますか?

「安土城」といわれる方が多いと思います。

しかしその前に、拠点としていたお城が美濃にある【岐阜城】でした。

そこで今回は「岐阜城」を攻めて、信長ゆかりの遺構を探していきたいと思います。

岐阜城の簡単な歴史

岐阜城の歴史は古く、鎌倉時代の1201年【二階堂行政】によって、標高329mの稲葉山(現・金華山)に築かれた「砦」でした。

その後、この地を治めた「斎藤氏」によって整備され【稲葉山城】が完成します。

戦国時代になると城主の【斎藤道三】と、この地に侵攻してきた【織田信長】による戦いを経て、信長が城主となりました。

信長は稲葉山城を【岐阜城】と改め、天下統一への拠点として、使われていくことになるのです。

ユキムラ
ユキムラ

現在は【岐阜公園】として整備されています。

城を攻める

それではさっそく、攻めていきましょう。

岐阜城は大まかに、山麓の【居館部】と山上の【城郭部】に分けられます。

今回は居館を攻めてから、城郭に迫っていくことにしましょう。

山麓の居館

まずは【居館】から見ていきましょう。

しっかりした門の先に階段が続き、その先に居館があります。

居館を改修したのが【織田信長公】で、斎藤家からこの城を奪取したときに、大改修したといわれています。

さっそく階段を登って、攻めていきましょう。

階段を登ると至るところに【石垣】が築かれ、その上に居館の区画が広がっています。

石垣には【斎藤氏】の時代に築かれたものが残っていました。

信長はこれらを利用しながらも、自分の考えをアレンジしながら、館を築いたのだと実感しますね。

居館スペースはとても広く、かつてはここに豪華な御殿や、庭園などがあったみたいです。

居館スペースの通路は、しっかり折れ曲がる工夫がされていて、敵の進軍スピードを遅くするためのシステムが築かれていました。

先に進むと小さな橋があり、下には小川が流れていました。

ユキムラ
ユキムラ

橋の右手には滝があったらしく、想像すると豪華さが分かります!

館の奥には【三重塔】が建っていました。

この塔は信長とは関係なく、大正天皇の即位を記念して、岐阜市が1917年(大正6年)に建てたものです。

最後に居館地区を一望してみましょう。

それにしても信長は、よくこんなに急斜面の場所に館を築いたと、改めて思いました。

山上の城郭

館を攻め落としたので、こんどは山上を攻めていきましょう。

岐阜城には10ヵ所の登山道があり、多少変わりますが登りきるのに「約1時間」ほどかかります。

戦国時代は大変だったことでしょう。

幸い令和の今は【ロープウェー】という素晴らしいものがあるので、利用するしかないですね。

山麓の駅から約4分、山上に着きました。

ロープウェイの山頂駅から天守閣までは、登り坂が続きます。

「階段」などはありますが、靴はしっかりしたものを履いた方がいいですよ。

少し歩くと【二ノ門】が見えてきます。

さらに先へ進むと「岐阜城」と書かれた看板がありました。

ここは【天守閣】も見えるので、撮影スポットみたいですね!

ロープウェー駅から10分ほど歩き【天守閣】に到着しました。

織田家の「家紋」がついた旗が立ち並び、信長の威厳が感じられる場所です。

天守閣の石垣は信長時代のものではなく、明治時代に積み直されました。

天守閣は1956年に鉄筋コンクリートで復興されたもので、信長の天守は近くにあった【加納(かのう)城】に移築されたということです。

しかし天守台の下にある石垣は、信長が築いたものでした。

よく見ると両者は積み方に違いがあり、石垣が好きな方は、直ぐ見分けがつくと思いますよ。

天守閣からの眺めを見てみましょう。

ご覧くださいこの絶景を、西側は岐阜の街並みが一望できます。

下に見える川は【長良川(ながらがわ)】で、鵜飼いで有名です。

ユキムラ
ユキムラ

岐阜城はこの「長良川」を、天然の【外堀】としていました。

「南側」の眺めは同じく岐阜の街並みと、金華山の全景が見えます。

戦国時代はこの金華山全体を城に取り込み、いたるところに「砦」が築かれていたみたいですよ。

最後に「北側」の眺めです。

長良川の上流部とその先にがみえます。

天守閣の下道へ回り込んできました。

天守閣へ続く通路の石垣を、見上げることができます。

ここから見える石垣は、信長時代に積まれたもので、なかなかの迫力です。

最後に【本丸井戸】が見えてきました。

山城の生命線といえる「水」です。

「こんな高い山の上で水が湧くの?」

そうなんです、実はこの井戸は湧いてるわけではなく、雨水を貯めていました。

城での籠城戦ともなると、麓から水を運ぶ時間もないので、この井戸は非常時に活用されていたみたいです。

ユキムラ
ユキムラ

この井戸は【岩盤】を掘ってつくられているので、当時は相当大変だったと思います。

関ケ原の戦いと廃城

信長の死後、岐阜城は「豊臣秀吉」の時代まで活用されました。

そして、信長の孫である【織田秀信】が最後の城主となります。

秀吉の死後、徳川家康と石田三成の争いが強まると、秀信は三成側の「西軍」に味方することに。

そして【関ケ原の戦い】が起きる直前、岐阜城は「東軍」によって攻められ、落城してしまいます。

秀信は何とか死罪は間逃れますが、岐阜城は取り上げられ、出家させられてしまいました。

その後、徳川家康によって岐阜城は「廃城」となり、近くの平地に【加納城】が築かれることになります。

ユキムラ
ユキムラ

戦乱が終わると「山城」は不便になるので、廃城は仕方がなかったのかもしれませんね。

アクセス

最後に岐阜城への【アクセス方法】をご紹介します。

公共交通機関

・JR東海道線「岐阜駅」下車、バス(N系統又は左回り)「岐阜公園・歴史博物館前」下車徒歩3分

東海北陸自動車道「岐阜・各務ケ原IC」から、「国道21号→156号」利用、岐阜公園駐車場(有料)があります。

最後に

いかがでしたか?

天下統一を決意した信長の城は、天空にいるような感じがする、絶景が見れるお城でした。

信長もこの景色を見ながら、いろいろと戦略を練ったのかもしれませんね。

お城が好きな方は、ぜひ行ってみる価値があると思いますよ。

それではこのあたりで!

コメント