【久能山城】信玄が築いた城に家康が眠る「駿河」屈指の山城

城と歴史

こんにちは、ユキムラです!

「久能山東照宮」といえば、徳川家康公を最初に祀った、静岡にある神社として有名です。

しかしそれ以前には、お城があったのをご存知ですか?

その名は【久能山城(くのうざんじょう)

そこで今回は、城だったころの「痕跡」を探してご紹介していきます。

久能山城の簡単な歴史

久能山城は標高210mの【久能山】に築かれた山城です。

別名「久能城(くのうじょう)」とも呼ばれ、その歴史は戦国時代に遡ります。

甲斐(山梨県)を本拠とした【武田信玄】が、駿河の今川領に侵攻、断崖絶壁の久能山に目を付けました。

当時この場所には、7世紀頃に建立された「久能寺」というお寺がありましたがこれを「清水(しみず)」に移転、1568年に久能山城を築きます。

武田家滅亡後は【徳川家康】の城となり、後に「駿府(すんぷ)城」を築いた家康は、

駿府城の本丸は久能山である」と、その重要さを唱えました。

現在は家康を祀る【久能山東照宮】となり、多くの参拝者が訪れています。

【久能山東照宮】徳川家康公を祀る「城跡」に造られた神社
家康が最初に埋葬されたのは「静岡」の城跡でした。 「社殿」を始めとした豪華な造りの建物をご紹介します。

縄張り(全体図)

現在ある久能山城の敷地は、そのほとんどが東照宮となっているため、城跡だった名残はかなり少ないです。

そこで現地の案内板を元に、痕跡を探してご紹介します。

この図は久能山城だった頃の縄張り図です。

メインの曲輪は【二の丸】と【本丸】に分けられます。

そしてこちらが【久能山東照宮】の図です。

ご覧のとおり現在は【二の丸】【本丸】とも、城跡がすっぽりと東照宮になっています。

城を攻める

それではさっそく攻めていきましょう。

今回は城の大手道跡(表側)から行きます。

大手道

城の大手は海側にあり、久能海岸ともいわれています。

ここからスタートしていきましょう。

参道の前には商店街があり、お土産や久能山名物の「石垣いちご」を販売しているお店がありました。

商店街があるということは、昔からこちらのルートが栄えていたという名残ですね。

久能山の入口にある鳥居前に来ました。

ここから参道に入っていきます。

山頂までは「1159段」の階段が続きます。

久能山城だったころには階段はなかったでしょうから、登るのはさらに困難なことだったでしょう。

登りはじめて直ぐのところに、灯籠がありました。

灯籠を過ぎると【久能梅林】の入口があります。

梅の見頃は【2月中旬~3月上旬】みたいです。

少し早かったですね。

梅林の入口を過ぎると、険しい階段が始まります。

つづら折りになっている姿を見ると、もし上から攻撃されると思うと、敵の思うつぼで恐ろしいですね。

大手門(一ノ門)

階段を15分ほど登って息が上がってきたところに、城の入口である【大手門】に到着しました。

現在でも「一ノ門」として、東照宮の入口で使われています。

ユキムラ
ユキムラ

階段を登って疲れきっているところから、城を攻撃しなければいけないのはキツイですね。

現在の大手門(一ノ門)は立派な造りですが、久能山城だったころの戦国時代は、もっと簡素な門だったでしょう。

【久能山東照宮】から眺める「駿河湾」と「参道」の景色

大手門を過ぎると、山城ならではのビュースポットがあったので、動画でご覧ください。

先に進みましょう。

山頂部に近づくにつれて、「石垣」が増えてきました。

ここだけ見ると、もう城にしか見えませんね。

しかし信玄が築いた頃の城は、「土塁」などの防御システムが主流だったので、この石垣は徳川家が築いたものでしょう。

見晴台

石垣の横を登っていくと、見晴台がありました。

ここからは「駿河湾」の眺めが良く、監視台として使われたと思われます。

久能山からは「静岡(駿府)の市街地」や「東海道」は見えません。

そのため久能山城は、もっぱら【海上監視】のために築かれた城といわれています。

勘介井戸

見晴台の反対側には、井戸ありました。

その名は【勘介(かんすけ)井戸】といいます。

信玄が城を築いたとき軍師の山本勘介が、この場所に井戸を掘ったと伝わる場所です。

山城の鍵は「飲料水の確保」だったので、この井戸は重要な水資源だったことでしょう。

ユキムラ
ユキムラ

井戸の深さは「約33m」もありました。

階段を登りきり、平坦な道になりました。

二の丸】に到着です。

二の丸

二の丸は厳密にいうと、ロープウェイの【久能山駅】がある付近です。

しかし社務所があるこの付近も、曲輪のような面影があるので、同じような役割をしていたと思われます。

久能山駅の横にやってきました。

この付近が【二の丸】で、石垣があります。

この石垣が当時の遺構だということです。

よく見ると石垣の「積み方」が左右で違いがあり、積まれた時期が違うことを実感できます。

本丸

本丸は現在、久能山東照宮の社殿が数多く立ち並んでいます。

そのため遺構は少ないですが、石垣が多数築かれています。

稲荷神社の横には、昔ながらの積み方である「野面(のづら)積み」の石垣を見ることができました。

これが曲輪の跡だったかは、分かりません。

こちらは【鼓楼】の下にある石垣です。

左側か「打ち込みはぎ」右側が「切り込みはぎ」の石垣で、こちらも違う時期に築かれた石垣だと分かります。

神廟】に続く階段の横には石垣ではなく、土で盛られた土塁があり、戦国時代の城を感じさせてくれます。

以上が本丸のご紹介でした。

また、神廟の上には【愛宕郭(あたごかく)】という「詰城」のような曲輪があるみたいです。

現在は【愛宕神社】となっているのですが、通常は立ち入り禁止となっています。

ユキムラ
ユキムラ

愛宕神社も久能山城時代の遺構が残っているらしく、見れなくて残念でした。

最後に・・・

いかがでしたか?

現在は久能山城としての遺構は、数少なくなっていました。

しかし参道の階段を歩いて登れば、当時の城を感じることができます。

みなさんも体力に自信があれば、東照宮参拝の際に登ってみてください。

それではこのあたりで!

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